2021年06月07日(月)

1.  最近の蒸し暑さに負けて扇風機を引っぱり出した。べつだん風力が強いモデルでもなく1番弱い設定で羽を回しているだけなのにこれがめちゃくちゃ冷える。むしろ寒い。布団を被りたくなるぐらいに冷えるので、ある程度体温が下がったところで電源を切るのだが、またすぐに暑くなって電源をonにする。また寒くなってoffにする。また暑くなってonにする。  むかしは扇風機で寒く感じることなんて1度もなかったのに、扇風機あるあるを体感する歳になってしまった。悲しい。 2.  人に祝われるのが苦手なので、基本的に誕生日を教えていない。  まず誕生を祝うということ自体がよく分からない。別に反出生主義者というわけでもないが、生まれでたことがそんなにめでたいかと言われるとピンとこない。ただの自然現象だし、生まれなきゃよかったと思う人が一定数いるくらい現実世界で生きていくのは大変だ。自分の意思で選んだわけでもないこの世の生を、それでも祝ってもらいたいと考えられる人の精神は健全だ。見習うつもりはないけど立派である。  単純に年齢の問題もある。中年として肉体が衰えていくのみで、もはや成長の喜びみたいなものはない。年齢によって制限されていたコンテンツもすべて開放しきっている。死と不健康だけが強制スクロールステージのように迫ってくることを実感する日について、何を祝うのか、よくわからない。  記念日というものの理解がそもそも浅い。記念日を意識した生活を排しているからである。休日であることを除けば年末年始さえどうでもいい。365日が真っ平ら。生活に情緒を持って生きていません。 3.  今思うと、実家の両親の影響だったように思う。誕生日をそんなにはっきりと祝う習慣がなくて、ケーキが出てくるようなこともなかった。祝い金だけもらっていたような気がする(記憶が曖昧)。  関係あるか分からないが写真や動画を撮る人たちでもなかった。おかげで実家にはアルバム的なものがほぼない。自分が幼稚園児ぐらいのころまでの写真しかない気がする(記憶が曖昧)。 4.  祝われるのが苦手なのは、その場の中心に自分が立たされてしまうから。別に話すことなんてないし誕生日を祝ってもらいたいわけでもないのに、感謝を述べたりしないと空気として許されない。勝手に中心に立たせて義務を課すのは乱暴である。  自分のこの「中心に立ちたくない」という感情は非常に根強く、変な例だがたとえば何かのイベントでビンゴ大会などがあっても絶対に自分からビンゴを当てないぐらいである。ビンゴを当ててしまうと自分から手を上げて当選者アピールしないといけないし、わざわざ前に出て景品を受け取るというプロセスも発生する。これが結婚式の二次会とかだと景品と引き換えにマイクを渡されて新郎新婦にお祝いのメッセージを送らされたりもするから最悪だ。払った会費のN%がビンゴの景品に使われているとしても、必ず参加しているふりでボイコットしている。 5.  1人で生活している限り、場というものが生まれないので、「中心」もない。祝われるというのは、なにもなかったはずのところに無理やり線で囲ってそこを場とし、自分が中心であるという状況を作る作業だと思う。気が狂う作業だ。

2021年5月29日(土)

1.  文章を書く素人なので、抑制を持って書くことができないな、とよく思う。  抑制というのは、「伝えたい」と思うことに対して誠実ではない、欲のままに書いてしまう、という意味で書いている。 2.  たとえば、美しい光景の美しさを伝えたいとする。そこで美しいと感じたものや要素を伝えようと努力せず、美しいものを描写するときに使われがちな美辞麗句をたくさん使うことで美しさを説明しようとするのがよくない。美しさを伝えたい、という欲に対して適切な労力を払わず「これは美しいものですからみなさんも美しいと思って読んでくださいね」と揉み手でお願いしているようなものである。  表現する手間をすっ飛ばして伝達欲だけがダダ漏れている文章、これを自分は「抑制が効いていない」と考える。 3.  技術的な問題でもある。表現技術がないと表現というのは難しい。「表現する努力をすべきだとは思っているが素人の自分には無理だから諦める」という判断も素人なら仕方がない。そもそも趣味の範疇なんだから誠実な表現だのなんだのなんて意識する必要はない(したければもちろんすればいい)。 4.  抑制が効いていない日記を今後も書いていく。

2021年5月26日(水)

1.  食べ物における皮が苦手でできれば食べたくないと思っている。  食べられない果物の皮はもちろん、豆の表面や魚の皮も好きではない。特に魚の皮は子供の頃は必ず残していた。あんこも粒あんは皮が混じっているので好んでは食べない。だいたい皮というのは内側の身(実)を守るための盾であり、食べものとして捉えるものではないとも言える。屁理屈としては。 2.  スイカやメロンは、切り方にもよるが扇形に切り分けて食べる場合、果肉を食べているうちに皮の内側へと迫って行かざるを得ない構造をしている。皮の近くになればなるほど甘みの薄い層になり、食感も繊維質になっていき、果物を食べているのかきゅうりを食べているのか分からなくなってくる。  途中でうんざりしてくるのだが親や祖父母が渡してきた手前あまり残すわけにも行かない。仕方なく皮付近の果肉まで掘り進んでなお吸ったり舐めたりする。そうすると親や祖父母はこの子は本当に甘いものが好きだねえこんなに皮まで食べて云々、みたいに談笑するがこっちはスイカないしはメロンに対する義務を果たしているのであって卑しいガキみたいな評価をされるのは心外である。  ブロック状に切り分けてくれればこういうことにはならないが、そんな切り方があるなんて子供の頃は知らなかったのではないかと思う。 3.  大人になって苦手な皮を食べる必要がなくなったのは喜ばしい。

2021年5月23日(日)

[前提]  星組 東京宝塚劇場公演 『ロミオとジュリエット』千秋楽をネット配信で鑑賞しました。  以下雑感ですが、ガチの方に見つかって怒られると怖いので保険になりそうな前提を記載します。
  • 宝塚鑑賞経験皆無
    • 歌って踊るタイプの演劇自体ほとんど見たことなし
    • 「組」という概念もよく分かってない
    • イオンシネマと同じノリですぐチケットが取れると思ってた
    • 鑑賞した動機は暇だったから
  • ロミオとジュリエットの知識ゼロ
    • 「なんか毒で死ぬやつでしょ」ぐらいの認識
    • 横文字が苦手で名前が全く覚えられない
  • 鑑賞中メモを取り忘れた
    • ので記憶違いもあると思います
    • 面倒ですがご指摘はtwitterにお願いします
 宝塚とロミオとジュリエット、双方初見だったので、以下の雑感に記しているような演出が作品に普遍的(伝統的)なものなのか、宝塚演劇によくあるものなのか、今回の上演用に施されたアレンジなのか、区別がついていません。ので、よくあるベタな表現をさも新規性のある斬新な演出であるかのように述べている可能性がありますが、これはご容赦ください。  笑ってゆるして。 [経緯と配信について]  暇だし見たことないし、人生で1回ぐらいは宝塚を見に行くか、と思ったのが今年の年始頃。そのときは「宝塚を見るならやはり劇場に行ってナンボでは?」と思っていましたが、コロナのご時世にあってもなお気軽にチケットが取れるものではなく、しばらく観劇を諦めていました。  その後星組ファンの知り合いからネットで配信があるという情報を教えてもらい、チケットも比較的安い(映画よりは高い)ということでこのたび楽天TVで星組のロミオとジュリエットを鑑賞しました。初めて観劇する者としてはおそらく劇場より配信のほうが良かったと思います。「宝塚の雰囲気」はもちろん現場より劣るでしょうが、舞台全体が見やすい、演者の表情もはっきり見える、話に合わせてカメラが場面場面を適切に抜いてくれる、など親切です。食事しながら見れる気楽さも良かった。逆に舞台演劇を見慣れている人からすると物足りない(カメラワークが余計)かもしれません。 [内容について - 擬人化された愛と死]  劇冒頭で、"いつの世も愛と死は互いに引き寄せ合う関係である"(意訳)みたいなナレーションとともに、愛と死を象徴した2人が踊るシーンがありました。愛は白くキレイな女性、死は黒く冷酷な男性として擬人化されており、ほえーと思って見てたんですがこの2人がその後の劇中にもたびたび出てくるのが面白い演出でした。  ロミオとジュリエットが「運命に翻弄される男女の物語」であるなら、翻弄する運命そのものに人の姿を与えて舞台に上げてしまっても構わんだろう、という意図なんでしょうか。見る側としてはこの2人が出てくるとそのシーンがどういう意味なのかが分かりやすいので有り難かったという面もあります。  1番良かったのは、ロミオがジュリエットと結婚したことで両家の若者同士が衝突するシーン。ロミオがいがみ合っている家同士の結婚について愛と自由を謳うわけですが、敵対する家の若者(名前がまったく覚えられない…)の神経を逆なでしてしまい若者同士で殺人が発生してしまいます。美しく素晴らしいとされている「愛と自由」がきっかけで人の命が失われてしまうという皮肉なシーンですが、その最中ずっと、死を象徴している黒い男性が舞台の端で静かにニヤニヤと笑っているのが大変気持ち悪く、わかりやすくてかつ素晴らしい演出でした。  一方で、これはもしかしてロミオとジュリエットの物語じゃないのでは…? と感じる面でもありました。  ジュリエットが死んだと誤解し毒を飲んで命を絶ったロミオと、ロミオの死を嘆いてロミオの後を追い本当に自殺してしまうジュリエット。その2人の悲劇を死の黒い男性が最高の笑顔で見つめるシーンですが、これが後にひっくり返ります。2人の死を知った対立する両家が、2人が本当に愛していたということを悟りいがみ合いをやめてしまうのです。終わりのない対立(死)の運命にあった両家が、真実の愛に触れてもうひとつ(愛)の運命を選び取る、という大団円のシーンで、簡単に言えば愛が勝つという結末です。愛の女性がほほえみ、死の男性が目を背けます。  ロミオとジュリエットが運命を変えた、という見方もできますが、自分にはむしろ擬人化された2人の神による神話のように見えました。ロミオもジュリエットもこの劇の主人公ではなく、人間すべてを裏であやつって戦わせていた神々の暗闘の物語だったのではないかという印象です。  劇のラストシーンでは、死んだはずのロミオとジュリエットが立ち上がり、言葉もなく互いを抱いて踊ります。そしてその後ろで、両手を広げて微笑む愛の女性、そこに重なるように両手を広げて立つ死の男性。これはちょっと踏み込み過ぎな解釈かもしれませんが、まるで女性が十字架であり、男性がその十字架にかけられて処刑されているように見えてなかなかグロテスクなシーンだなと感じました。愛というものの狂信性が強調されているようで、そう考えると静かに踊っているロミオとジュリエットもまるでオルゴールの人形のように意思がないものに見えてしまいました。 [宝塚歌劇について]
  • 女性が男性を演じるということ
    • 初見の人間として気にしていた部分でしたが、これはきっと見慣れていくだろう高を括ってもいて、実際にそうでした。そもそも舞台演劇というのは演者と観客が嘘を共有する行為だと思っています。テレビドラマや映画などが要求されるリアリティとは楽しむポイントが違います。
    • あとこれは恥ずかしい話ですが、ロミオとジュリエットが踊るシーンで自然とジュリエットのほうに目が行きがちなのを自覚したのも、自分が男装を自然に受け入れていた証拠でしょう。
    • これは想定していなかったので結構戸惑ったのですが、思った以上に歌っている語りが聞き取りづらい。演者の歌が下手だという話ではなくて、これは自分の知識のなさによるものです。作品に出てくる固有名詞のことをほぼなにも知らないので、登場人物や家の名前が歌詞に出てくると全然聞き取れないんです。そして聞き取れないので、それが固有名詞なのか、名詞じゃない語りの一部なのかの区別がつけられず、雰囲気で理解していくしかないみたいな状況に陥ることになりました。幸いお話はかなりシンプルだった(シンプルにアレンジされていた?)ので問題はありませんでしたし、後半は多少慣れましたが。これは今後の観劇でも同じようなことが起きそうでやや不安なところでした。歌劇リテラシーがない。
    • あの動きと劇の長さであの声量/あの歌声は怪物。
  • その他
    • 舞台が終わったあとなんの説明もなく演者によるライブが始まったのはめちゃくちゃ笑いました。異文化。
[総合して]  面白かったです。退屈になる瞬間を可能な限りなくそうという偏執的なエンタメ性を感じました。

2021年5月21日(金)

1.  footerにtwitterのリンクを載せました。よろしくどうぞ。 2.  メカジキというものをご存知か。  自分は知らない。魚だろう、おそらくカジキの類だろう、ぐらいしか想像できない。ビジュアルもまったく浮かばない。  たまにフッと湧いた単語が頭から離れないということがある。今日はメカジキが当番の日だったらしい。 3.  労働と食事と睡眠ぐらいしかしていないし人間とも会話をしないので、日記には内的世界を書くしかない。書くしかないのに、今日はメカジキの当番の日だったのでメカジキのことしか書けない。でもメカジキのことは本当に何も知らないので困っている。  メカジキはきっと海の魚だと思うので海の話にすり替える。 4.  海辺の街に住んだことがない。一度ぐらいは海辺の街に住んでみてもいいな、と思っているが、潮風で金属が錆びやすいとか、風が強いとか、いろいろネガティブな情報も聞く。海は嫌いだが入らなければどうということはない、と思っている気持ちも若干ある。  雨の日でもないのに家の窓から大量の水が見える生活、という経験がない。実際どうなんだろうか。落ち着くものだろうか。2,3日で見飽きるだろうか(その可能性が高い)。 5.  海以外にも森、山、湖畔など、住んだことのない土地柄というのはたくさんある。今も昔も自然は苦手で、できるかぎり人工的な環境で過ごしたいと思っているが、歳をとって認知能力が低くなったのか、自然に対するネガティブな感情は昔より薄れてきたように思う。嫌いだけど食べることはできる野菜、ぐらいは許せるようになった。 6.  子供が野菜や辛いものを拒みがちなのは、毒に対する感受性が高いので苦味や辛味に過剰反応してしまう、という話を聞いたことがある。嫌いな食べ物を大人になって食べられるようになるのは、毒物へのセンサーが摩耗した結果ということ。  自分も自然に対して鈍感になってきているのかもしれない。あるいは自然から離れて生活をしすぎているだけで、いざ自然に囲まれた生活をし始めたら不快の極みに達するのかもしれない。  どっちにしても確認はしてみたい。憎しみや嫌悪感を失うのは寂しいことである。

2021年5月19日(水)

1.  こんばんは。 2.  テレビ局などの昼夜関係なく人が出入りする業界では挨拶が「おはようございます」で統一されていることがあるらしい。「こんにちは」「こんばんは」は敬語が入っていないので使いづらいという面もあると思う。えらくない人がえらい人に「こんばんは」と挨拶できる組織はなかなか想像がしづらい。 3.  ところでインターネットもまた昼夜の区別がない(なくはないけど、薄い)ところなので、見られている時間帯にあわせて挨拶するのはむずかしい。また、参加者の年齢や立場の区別も(隠されていると)難しく、割と多くの人がフラットに接するので、小学生が大人に集団でボコボコにされたり、逆に中学生が医者の医学知識を偉そうに批判したりもできる。  この状況だと挨拶は「こんにちは」でも「こんばんは」でも違和感がなさそうだ。 4.  古いインターネットユーザーなので、「インターネットは夜」という感覚が残っている。テレホタイムもそうだが、趣味のファンサイトでチャットをやりまくっていたころは人が集まるのが夜だったので、必然夜ばかりインターネットをやる。  最近はクラブハウスやスペースというリアルタイムのコミュニケーションSNS(?)が流行っているので、もういちどインターネットに夜の時代が来るのかも知れない。  あるいはそもそも、インターネットはずっと夜だったのに、自分がその感覚を失っていただけなのだろうか。 5.  というわけでみなさんこんばんは。今晩はいかがですか。

2021年5月18日(火)

1.  github-pagesでhtmlを公開している。  そのままだとjekyllテンプレートが勝手にあてられてしまった。リポジトリに.nojekyllというダミーファイルを置いておくことで通常の静的ファイルを参照できたのでメモっておく。 2.  サイト名が思いつかなかったので昔使っていたはてなダイアリーのサイト名をパクってきた。  魚の骨というのは、できるだけ意味のないものを名前にしたくて命名したもの。今でもそういうものを好む習性は変わらないので良いサイト名だと思う。 3.  htmlは書くまでが面白い。このまま日記が続かなくてもまあよし。about的なものはそのうち追加する